第16話 情報の見返り(前編)

この日の任務地は、淫霊が蠢くと噂される、深く暗い森の奥──

昼でも薄暗く、湿った空気が肌に絡みつくような、不穏な場所だった。

ひよりは静かに森へと足を踏み入れる。

(今日は……絶対に油断できない)

前回の任務で植物のような淫霊に捕まってしまったところを、同期でありライバルである氷室さやかに助けてもらっただけに、今回はいつも以上に油断できない思いだった。

前回、蔦のような淫霊に囚われ、全身を絡めとられた時の感覚──

花弁が開くように、身体のあちこちに触れては蠢く刺激。

安堵した直後のさやかによる陰湿な追い込みを思い出すと、なぜか身体が熱くなった。

胸の奥でざらつく疼きが、呼吸に混じって漏れそうになる。

ひよりはそっと胸元に手を添え、気配を探るように森の奥を進んだ。

 

霧が、いつの間にか濃くなっている。

白く煙る視界の中、何かがいる──

「……あら?」

女の声が、森の静寂を溶かすように滑り込んできた。

「もしかして……封霊師の、神崎ひよりちゃんかしら?」

霧の向こうから、輪郭の曖昧な影がにじむように現れる。

艶やかで、それでいて底知れぬ気配をまとった女──

人か、淫霊か、それすらもわからない。

「どうして、私の名前を……?」

女は微笑む。艶やかな唇が、意味深に歪んだ。

「なんで知ってるかって…? あのひと、あなたのお姉さんから聞いてるわよ。神崎みつき」

(…!)

身体が、かたくなる。

姉の名を口にしたのは、目の前のこの女が初めてだった。

「……知ってるの? 姉のことを──!」

「ふふ……そんなに必死になって。かわいいわね」

女は一歩、ひよりに近づく。

「…ねえ、お姉さんのこと知りたい…?」

これまで姉の存在は、失踪したか、最悪の場合既に亡くなっているという話しか聞いてこなかったひよりは驚きを隠せなかった。

(…何者なのかよくわからないけれど、いまは少しでも情報を…)

「知りたいのね…いいわよ。教えてあげても……でも、そう簡単にあげちゃうのはつまらないでしょう?」

「……条件があるのね。何をすれば、教えてくれるの……?」

唇を濡らしながら、ひよりは問い返す。

その声は震え、同時に、どこか熱を帯びていた。

「話が早くて助かるわ……そうね、わたしの"遊び"に付き合ってほしいの…いいわよね?」

“遊び”という言葉の響きに、ひよりの背筋がぞわりと粟立った。

 

でも──

姉のことを知りたいという想いが、その不安を押し潰す。

こくりを頷いた。

そう言って頷いた瞬間、女は艶やかに笑みを浮かべた。

まるで獲物が自ら罠に嵌まったことを愉しむ、淫らな捕食者のように──

「ふふ……いい子ね、ひよりちゃん。」

艶やかな声が、霧の中に蕩けるように響く。

「妹には“直接”手を出すなって……言われてるの。でも、“間接的”なら──いいわよね?」

艶やかに囁かれたその言葉に、ひよりの背筋がひやりと粟立った。

女はゆっくりと距離を取り、霧の中に溶け込むように姿をぼやかしながら、どこかで聞いたことのない、艶を含んだ声で何かを詠唱し始めた。

(……呪文……?)

その声が響くたび、あたりの霧はみるみる濃くなっていき、やがて視界は真っ白に染め上げられる。

 

(なに……この霧……なんだか、胸が熱い……)

霧を吸い込むたびに、ひよりの身体の奥がじわり、と熱を帯びていく。

胸の奥がざわつく。太腿の内側が、なぜかしっとりと湿りはじめる──

その瞬間だった。

「──きゃっ!」

四方から、ぬるりとした感触の“何か”が襲いかかった。

細長く、ぬめりを帯びた触手が、ひよりの両手首、足首、腰をたやすく絡め取り、逃げる間もなく宙へと持ち上げられていく。

(──しまった……霧で……視界が…っ)

意識の中で警鐘が鳴るが、触手は容赦なくひよりの身体を拘束し、徐々に脚を開かせていく。

(やめてっ……これじゃ、先日のあれと同じ──)

淫霊に囚われた時の記憶が、嫌でも脳裏を過ぎる。

あのとき感じた、花弁のような感触。ヒダに包まれ、撫でられ、弄ばれた、あの感覚──

「……“遊び”って……わたしを、どうする気なの……?」

ひよりは霧の中に向けて問いかけた。

すると、霧の奥から再び女の声が響いてくる。

「怖がらなくても大丈夫よ……ただ、どうしてあのひとが、そこまでしてあなたを“守ろう”としているのか……わたし、気になるのよ」

「姉さんが……私を、守って……?」

意味のわからない言葉に、ひよりの心がざわつく。

(……守る……私を……どうして……?)

女の真意も、“遊び”の全容もわからない。

 

けれど──ここで逃げれば、姉の手がかりは二度と手に入らないかもしれない。

ひよりは唇を噛みしめ、湿った空気を吸い込む。

肺の奥まで霧が満ち、そのたびに身体の内側がじんわりと火照っていく。

霧が纏う熱気に、ひよりの白い肌は艶を帯び、首筋を一筋の水滴が伝っていった──

それは汗か、霧の滴か、それとも……身体が反応し始めている証なのか。

“遊び”は、まだ始まったばかりだった。