
第18話 内面への準備
公開日: 2025/08/13
先日──
姉・神崎みつきの消息を知るという女との邂逅を経て、ひよりは心に新たな決意を抱いていた。
(姉さんは……生きてる)
その事実だけでも胸が震えるほどの衝撃だったが、同時に拭いきれない疑問が残った。
(でも……なぜ、封霊師をやめて淫霊側に……?)
かつて誰よりも正しく、凛としていた姉が──そんな選択を自ら望んだとは思えない。
あの日、女から語られた真実と引き換えに、ひよりの身を貫いた“得体の知れない感覚”──
あれを思い出すたび、身体の下半身を締め付けるような奥底が微かに反応してしまう自分が、少し怖かった。
今日はその思いを力に変える日──
中級封霊師昇格試験。
これまで下級封霊師として地道に任務をこなしてきたひよりに、正式な昇格の機会が与えられた。
中級となれば、より危険で複雑な任務が課されるようになる。
だがそれは、自身の力をさらに磨く舞台でもある。
推薦者は、なんと封霊会の会長夫人だという。
(……どうして、夫人が私を?)
直接的な面識はない。にもかかわらず、その名が挙がったというのは、ひよりの持つ特異体質が会の中でも密かに注目されている証拠なのだろう。
(この機会……絶対に逃せない)
ひよりは封霊会の奥にある、人気のない棟の廊下を進む。
しんと静まり返った空気に、足音だけが響いた。
試験会場の扉の前で一呼吸置き、背筋を正すと、
「失礼します。神崎ひよりです」
扉を開いた先には、壁も床も真っ白な無機質な空間が広がっていた。
何もない。ただ、その中央に、試験官と思しき人物が立っている。
「やあ。よく来たね」
穏やかな笑みを湛えた男性が、ひよりを迎える。
年齢は30代前後だろうか。人懐っこそうな眼差しに、ひよりは自然と緊張をほぐされた。
「君の特異体質、噂には聞いているよ」
(やっぱり……私のこと、知られてるんだ)
ひよりは静かに頷いた。
「じゃあ、さっそくだけど中級封霊師試験を始めようか」
「ご存知のとおり、中級になるということは、技術だけじゃなく、精神面でも成熟していないと務まらない」
「そこで今日の試験では──“自分自身”と向き合ってもらう」
「……自分自身と」
思わず、小さくつぶやく。
「僕はね、幻術が得意なんだ。これから君に幻術をかける。内容は……君の内側と向き合うこと。その幻から自力で抜け出せたら合格。できなければ不合格。シンプルでしょ?」
ひよりは、言葉の重みに静かに頷いた。
「よろしい。では準備に入ろうか。──まずはシャツを脱いで、そこに立ってくれるかな」
「えっ……?」
「ああ、抵抗があるのは分かる。でもこれは、特殊な幻術でね。術式の性質上、どうしても身体の状態を媒介にする必要があるんだ。……安心して。この部屋には君と僕しかいない」
穏やかで理性的な声だった。
だが、どこか体温のあるその声音が、ひよりの胸の奥を微かにざわつかせる。
(……受けなきゃ、進めない)
迷いをひとつ深呼吸で飲み込み、ひよりは部屋の中央に立った。
そしてゆっくりとシャツのボタンに手をかけ、一つずつ、静かに外していく。
布と肌の間に冷たい空気が滑り込んでくるたび、緊張と羞恥が入り混じった感覚が胸に広がった。

背後にいる試験官の視線を、直接見ていないはずなのに、はっきりと感じる。
「……これで、いいですか」
わずかに震える声で問いかけると、彼は柔らかく応じた。
「うん。じゃあ次に──両腕を上げて、深く呼吸して」
言われるままに腕を上げて、数回深呼吸をした。
吸い込んだ空気が、肺の奥に広がり、豊かな胸の膨らみがより一層目立ち、大人びた雰囲気を醸し出す。
「今から少し、君の身体に触れる。術のために必要なことだ。触れられる場所に意識を集中させて」
「……はい」
その一言を絞り出した瞬間、細く繊細な指先が、そっと背中に触れた。
最初の一点は静かで──だが、意識を背中に向けるほどに、その存在を強く感じ始める。
(触れられてる……だけなのに)
指先はゆっくりと肩の方へと滑る。
滑らかな動きに、ひよりは思わず肩をすぼめた。
「遠くを見て。呼吸はゆっくり、力を抜いて」
言葉に従って黒い壁を見つめる。だが、目の前の空間は次第にぼやけ、指先の感覚ばかりが鮮明になっていく。
指先は、肩から腕へ。
そして、前方に回り込むようにして、二の腕をなぞる。
緊張か恥ずかしさのせいか腋には少しばかり湿りを帯びていた。
指先が徐々に腋に近づいてくるのを感じ、その湿りは小さな水滴へと変わった。
腋の辺りに水滴が垂れるのを感じたそのとき、指がそこに触れた。
くすぐったさに、ひよりの背筋がわずかに震える。
「目を閉じて……すべての感覚を、今だけは“内側”に向けて」
そっと目を閉じると、視覚からの情報を失い、代わりに“触れられている”感覚だけが、脈打つように膨らんでいく。
指先はそのまま下への動きの途中、右側の触覚がふと消える。
と同時に、胸元を包んでいた下着が外され、大きな膨らみがあらわになった。
(えっ…)
声を出そうとしたのを試験官が遮る。
「あともう少し」
耳元で囁かれるその指示に口を閉じた。
そして再び、指先が戻る。今度は、胸の輪郭に沿ってなぞるように動いていく。
理性では平静を保とうとしていた。
けれど、過去の任務で受けた淫霊の記憶が、肌のどこかに残っていたのだろう。
思考と記憶が微かに交差し、わずかに触れただけで、心と身体がざわめいた。
先端はすでに固く立ち上がっていた。
輪郭の下側へとまわると、その重みが分かるほどに、指先を押し返した。
ひよりの鼓動は早くなっていた。
指先はゆっくり先端へと近づいていき、先端に指先が触れた瞬間、反射的に身体が仰け反った。
そして──
触覚がすっと消える。
ひよりは目を開いた。
……そこに試験官の姿はなかった。
代わりに広がっていたのは、黒い壁に囲まれた、静謐で閉ざされた空間。
天井には淡い照明が灯り、どこか現実離れした幻想のような雰囲気を醸している。
──ここが、幻術の世界。
ついに、ひよりの“内側”への旅が、始まろうとしていた。
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