
第28話 絡繰の糸(前編)
公開日: 2025/09/02
榊原れんの一件以来、ひよりは彼と親しいのではないかと噂され、先輩の封霊師である葉山りつかからも鋭い視線を向けられていた。
あの日──葉山の指がポケットから取り出した塗り薬を、たわわに実った乳房へとねたぐり込んできた感触。
その冷たさと、じわじわと先端を痺れさせたピリつく刺激を、身体は確かに覚えていた。
頭を振って雑念を追い払う。今は姉の行方を探すために、少しでも任務を進めなければならない。
封霊会の執務室の扉の前で、ひよりは深く息を整え、ドアノブに手をかけた。
「おお、ひよりくんだね。ちょうど、お願いしたいことがあったんだ」
執務官の男は、机に山積みとなった書類をかき分けながら何やら探していた。
やがて一枚を取り出し、手にした紙をひよりの前へ差し出す。
「……あった。これだ」
差し出された任務依頼の書面に目を落としたひよりは、記された文字に眉を寄せる。
「……糸……?」
「そう。近隣の村で、まるで蜘蛛の糸のようなもので作物や家畜が絡め取られる被害が相次いでいる。だが、それだけじゃない──人間まで糸に捕らわれ、身動きが取れなくなる被害が広がっているらしい」
執務官の声がわずかに沈む。
書面には、目撃談がいくつも書き連ねられていた。
ひよりは喉を鳴らし、思わず拳を握りしめた。
「今回はひとりで向かってほしい。あいにく、人手が足りなくてね……」
男は少し部が悪そうに視線を逸らす。
(…ひとり…)
頭をよぎるのは、これまでの戦いで囚われた記憶。
瘴気や粘液に翻弄され、抗えぬまま身体が反応してしまった数々の屈辱──。
「……いえ。行ってきます」
強く言い切ると、ひよりは紙を握りしめ、踵を返した。
ローファーの硬い床に響き、執務室を後にする。
胸の奥にざらりとした不安を抱えながら──。
時刻は深夜零時。
市街地からさほど離れていない、廃墟と化した倉庫。
「……この辺りのはず……」
ひよりは慎重に足を踏み入れた。
埃っぽい匂いが鼻をつき、空気は湿っている。
当時使われていたらしい棚や備品がそのまま残り、鉄は赤茶けて錆び、影を歪に伸ばしていた。
ひよりは一歩ずつ、音を立てぬよう脚を運ぶ。
その時──
ガサガサッ……
背後から微かな物音。
ひよりは素早く振り返った。
「っ……」
だが、そこには何もいない。
警戒を緩めず視線を落とした瞬間、視界の端に黒い何かが蠢いた。
ぞわり、と背筋を撫でる嫌な感覚。
凝らして見ても、やはり空気に溶けるように姿を消す。
再び歩みを進めようとしたその刹那──
フシューーー……
耳元に吐息のような風が吹きかかる。
それは生温かく、人間の吐息のように湿り気を帯びていた。
「きゃっ……!」
ぞわりと背筋を走る悪寒に、ひよりは反射的に身を翻し、素早く距離をとった。
その時──暗がりの天井に、黒い影がゆらりと浮かび上がる。
視界にとらえたその正体は、糸を器用に垂らしながら天井にぶら下がる異形。
姿形は人に近い。だが、関節の動きは蜘蛛そのもので、不気味な艶やかさを放っていた。
(……報告にあった淫霊で間違いない……)
喉がひくりと鳴り、緊張の唾を飲み込む。
淫霊がゆっくりと口を開けると、唇の端から艶めいた光沢を持つ糸がしゅるりと溢れ──次の瞬間、矢のようにひより目がけて放たれた。
「っ……!」
横へ身を躱し、古びた備品の陰に転がり込む。
すぐさま脚に力を込め、宙に浮かぶ淫霊へと拳を振り上げた。
だが──
「……!」
拳は空を切り、淫霊は糸を伝いするりと天井高く舞い上がる。
シュシュシュシュ……
糸を弾くその音が、まるで嘲笑のようにひよりの鼓膜をくすぶった。
(……くっ、あの距離じゃ攻撃が届かない……!)
苛立ちを押し殺し、再び構えをとった瞬間。
淫霊が再び口を開き、粘ついた糸を放つ。
ひよりは今度も身体を捻ってかわす。
だが、放出のタイミングを狙い飛びかかろうとしても、指先すら届かない。
攻防が何度も繰り返され、倉庫の空気がじりじりと熱を帯びる。
(……攻撃自体は大したことない、でもこのままじゃ埒が明かない……)
そう思ったそのとき──
ぐいっ──!
「……っ!?」
右腕が突然強く引かれ、粘つく感触が肌を伝う。
気づけば白濁した糸が腕に絡みつき、まるで生き物のように締め上げてきた。
「はっ……放してっ!」
視線を右腕に落とすと──薄暗がりでは気づけなかったが、細い糸が幾重にも絡みついていた。
光を反射するその糸は、まるで肌に吸いつくようにねっとりと張りついている。
(な……なに、これ……)
慌ててもう片方の手で引き剥がそうとする。
だが、思いのほか強靭で、力任せにはちぎれない。一本ずつなら、かろうじて切れそうだった。
しかし──ふと左腕を見ると、そこにも同じように細い糸が絡みついている。
さらに視線を落とすと、脚までもが細い糸に縛られていた。
(……いつの間に……)
攻防を繰り返すうちに、倉庫中に張り巡らされていた糸が、いつのまにかひよりの四肢を絡め取っていたのだ。

次の瞬間──
ブシュッ、と淫霊の口から勢いよく吐き出される白い糸。
「ひゃあっ……!」
細かい糸に動きを奪われたひよりは、身を捻りきれず正面からそれを浴びてしまう。
さきほどまでの細い糸とは違い、今度は太く粘度のある糸が全身を覆い、瞬く間に身体を縛り上げていく。
(……まずい……!)
瞬く間に両腕は大きく広げられ、脚も床へと固定される。
まるで見えない檻に囚われたかのように、身体は一切の自由を奪われた。
シュシュシュ……
耳の奥に残る、不気味な笑い声。
これから何をされるのか──
平静を装おうとするが、恐怖と羞恥で呼吸は乱れ、あがこうとすれば胸が大きく揺れる。
焦りを押し殺そうとすればするほど、緊張と胸の高鳴りが絡まり合い──
身体は思い通りに抑えきれず、熱を帯びていくのだった。
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