第39話 装置がほどける刻(前半)
2026/02/13
治療薬の開発には、まだ時間がかかるという。
その現実に、ひよりは一度だけ静かにまぶたを閉じ、呼吸を整えた。
今はただ、進展を待つしかない。けれど、じっとしていられるほど、彼女の心も身体も穏やかではなかった。
(…待っている間に、できることを)
ひよりはそっと呟き、制服の胸元を軽く押さえた。そこに鼓動がある限り、立ち止まってはいられない。
姉・神崎みつきの行方を追う。その途上にある、さまざまな淫霊との対峙。
そのひとつひとつが、ひよりにとっては過酷な試練であり、自身の“特異体質”と向き合う時間でもあった。
自らの身に宿る、過敏な感覚。些細な刺激にも揺さぶられるその身体は、まるで触れられることすら拒むかのようでいて、時に、抗えないほどの熱を帯びる。
それでも前へ進むしかない。
彼女はそう心に言い聞かせながら、封霊会本部の重厚な扉を押し、執務室へと足を踏み入れた。
奥に佇む年配の男が、彼女に目を留め、ゆっくりと口を開いた。
「ひよりくん、来てくれたか。今回は…少々、厄介な任務になる」
彼の声音には、警戒と期待の両方が滲んでいた。
「最近、淫霊の目撃情報が増えていてね。棲み着いていると見られる場所がある。君にはそこへ赴いてもらいたい」
「…はい」
「ただ、そこには淫霊の力を増幅させる装置があるらしい。被害の報告も後を絶たない」
「…そんなものが…」
ひよりの瞳がわずかに揺れた。胸の奥に、不安の影が広がっていく。
「この装置は、力ずくではどうにもならない。停止には、特殊な能力を必要とする」
「わたしには、そんな力は…」
不安げな視線を向けるひよりに、男はゆっくりと頷いた。
「わかっている。だから、こちらで解除可能な者を用意した。彼だ」
視線の先、部屋の片隅から一人の男が歩み出る。
華奢で繊細な印象の青年は、どこか怯えたように、けれど真っすぐに、ひよりへと頭を下げた。
「と、鴇田(ときた)です」
柔らかく細い声。その音の余韻が、ひよりの耳に静かに染みこんだ。
「今回、彼は解除専門として同行する。だが、戦闘経験はない。淫霊の注意を逸らし、彼が集中できるよう、君には“囮”になってもらいたい」
「……陽動、ですね。了解しました」
その言葉の重みを、ひよりは静かに受け止めた。
「うむ。頼んだぞ、ひよりくん」
「はい」
軽く礼を交わし、二人は執務室をあとにする。
微かにすれ違う肩と肩。その先に待ち受ける任務の気配が、静かに肌を撫でていった。
扉が閉まる音が、静かに、そして確かに響いた。
それはまるで、外界との接点がふっと断たれたかのように、二人のあいだに沈黙を落とした。
「……じゃあ、行きましょうか」
ひよりの声が、わずかに空気を震わせる。
対する鴇田は、驚いたように身をすくめた。
「あ、は、はい……」
落ち着きなく動く手先。視線の行き場を探して宙をさまようまなざし。
ひよりの隣で歩く青年は、明らかに不慣れな緊張を纏っていた。
(こういうときって…何を話せばいいの…?)
ひよりもまた、経験の浅さを痛感していた。
男性とふたりきりで行動することなど、これまでにほとんどなかった。無口な鴇田の隣で、自然に言葉を紡ぐことも、彼女にはまだ難しい。
二人のあいだには、沈黙という名の空気が、薄い膜のように張り詰めていた。
やがて、目的の地点へと足を運ぶうちに、交わされる言葉は必要最低限のものに限られていった。
「……徐々に、気配が強くなってる……このあたり、かも」
ひよりが足を止め、薄暗がりの先を見つめる。
空気が妙に湿っている。重く、まとわりつくような気配。まるで肌の上に何かが這うような、ざらりとした感覚。
視線の先には、朧げな霧の中に沈む祠がひとつ。
その瞬間――
「うわああっ!」
鴇田の叫びが響いた。
反射的に振り返ったひよりの目に飛び込んできたのは、複数の淫霊に包囲される自身と鴇田の姿。
そのうちの一体が、じり…じり…と鴇田に滲み寄っていく。
「鴇田さん! 逃げて!」
叫ぶひよりの声に、彼は後ずさりし、尻もちをついた。
彼の膝が小さく震えているのが、ひよりの目には痛いほど映った。
――護らなきゃ。
本能に突き動かされるように、ひよりは淫霊へと飛び込み、拳を振り抜いた。
風を裂いた拳が淫霊に命中し、霊体はわずかにたじろいだ。
だが、完全には消えない。装置の影響か、その力は通常よりも強化されているのだ。
「淫霊は私が引きつけます! 鴇田さん、あの祠に向かって、装置の解除を…!」
「は……はいっ!」
震える声ながらも、彼の目には覚悟の色が宿っていた。
頼りなさを抱えながら、それでも彼は立ち上がる。震える膝で、それでも前へ進もうとする背中。
その背中を守るように、ひよりは再び淫霊へと身を翻した。
一体、また一体――
狙いを定めて、拳に力を込める。
ぐっと腰を落とし、重心を安定させると、鋭く踏み込んで拳を放った。
指先に伝わる衝撃。拳が淫霊の核心をとらえた感覚。
黒く砕ける粒子が、空気に舞い上がって消えてゆく。
(これで…一体…)
祠の方へ視線を移すと、ちょうど鴇田がその場に膝をつき、装置にそっと触れたところだった。
(お願い、間に合って…)
――その時だった。
背後に忍び寄る、冷たい気配。
(…っ!)
ひよりは瞬時に反応し、身を翻す。
襲いかかる淫霊の爪先は、紙一重で彼女の身体を逸れていった。
だが、鋭い風圧と共に舞った爪は、彼女の衣服を裂いた。
布地が擦れ、肩口や脇のあたりが無惨にほつれる。風が肌を撫で、露わになった素肌にひんやりとした空気が触れた。
(…さっきの一撃よりも鋭い…やっぱり、装置の影響で力を増してる)
ひよりはすぐさま後方に跳び、淫霊との間合いを取りながら、周囲を見渡した。
視界の端で、ぼんやりと蠢く影が数体。
その全てが、まるで何かに導かれるように、彼女を中心に集まり始めていた。
ゆら…ゆらりと漂うその動きは、まるで媚びるような甘さすら含んでいて、無意識に身体がざわめいた。
肌にまとわりつくような淫気。
それは、過去の任務で受けた、忘れかけていた刺激を呼び起こす。
ひよりの胸の奥に、微かな疼きを残していく。
(落ち着いて…今は、数を減らしていくしかない。…装置が止まれば、弱体化するはず…)
そう自分に言い聞かせ、再び呼吸を整えたその瞬間。
淫霊のひとつが、突如として動きを止めた。
静寂。
そして――突如、ひよりめがけて飛びついてきた。
「……!」
高速で飛びかかってくる淫霊の気配に、ひよりは咄嗟に脚へ力を込め、横に跳ねた。
辛くも避けたが、その爪先がかすめたのは彼女の肩。
ぞくりとした感覚が走る。瞬間、身体がひときわ大きく揺れた。
勢いで跳ねた胸がふるりと揺れて、引き締まった身体に汗がつたう。
露出した肌が月明かりを照り返すように、淡く艶めいていた。
身体をひねり、ひよりはすかさず拳を繰り出す。
空を裂く鋭い打撃――だが、わずかに逸れ、命中には至らなかった。
続けざまに、別の淫霊が襲いかかる。
攻防の応酬。
ひよりの拳は、確かにその身体をとらえている――だが、それだけでは霊体を祓うには至らない。
「っ……はぁ……はぁ……」
息が荒くなる。
抑え込んだ呼吸が漏れ、汗が首筋をつたう。
制服の隙間から覗く肌が、月の光と汗の粒で美しく輝いていた。
その眩さに引き寄せられるかのように、淫霊たちはさらに濃く、強く、彼女の周囲に群がってくる。
ちらりと視線を走らせると、鴇田はまだ祠の前に膝をつき、何かに必死で手を伸ばしていた。
額に浮かぶ緊張の色。その背中が、ひよりにはやけに遠く感じられる。
――今は、こちらに集中しないと。
そう思って視線を戻した、その瞬間だった。
遅すぎた。
淫霊は、すでにひよりの眼前にまで迫っていた。
距離は、もうない。
避ける――という選択肢は、最初から存在していなかった。
(……っ)
直感的に、腹部に意識を集中させる。
全身の感覚をそこへ集めるように、ぎゅっと歯を食いしばった。
衝撃。
内側をえぐるような圧に、息が詰まる。
致命打こそ避けられたものの、地面に崩れ落ちた身体は、すぐには言うことを聞かなかった。
(……なんて、力……)
視界が揺れる中、淫霊は不気味に揺らめき、低く、何かを囁くような仕草を見せた。
次の瞬間――
空間が歪み、闇が滲む。
黒い影が地面に滲み出すように広がり、そこから“それ”が伸びてきた。
無数の、蠢く触手。
「……きゃっ……」
声にならない声が、喉から零れ落ちる。
先ほどの衝撃が身体に残っていたせいで、とっさに身を翻すことができなかった。
絡みつく感触。
四肢が、逃げ場を失う。
(……そんな……)
冷静な判断が、じわじわと溶かされていく。

もし、この淫霊が本気で命を奪うつもりなら――
すでにそれは、容易だったはずだ。
けれど。
淫霊が求めているのは、別のもの。
人が胸の奥に秘める、欲望。
とりわけ、甘く、熱を帯びた“それ”を啜ること。
ぬめりを含んだ感覚が、拘束された四肢からじわりと伝わってくる。
触れているだけなのに、なぜか神経が過敏に反応してしまう。
脳裏をよぎるのは、これまで任務で受けてきた数々の刺激。
忘れたはずの感覚が、呼び覚まされる。
身体の奥が、じんわりと熱を持ち始める。
頬に、はっきりとした熱が集まり、息が浅くなる。
(……だめ……なのに……)
何をされるのか。
その“先”を、頭では拒絶しているはずなのに――
ひよりの身体は、すでに知っていた。
この先に待つ感覚を。
抗おうとしても、否応なく揺さぶられることを。
闇の中で、淫霊の気配が、さらに近づく。
その瞬間、ひよりの胸の奥で、恐怖と熱が、絡み合うように脈打った。
――まだ、終わってはいけない。
その微かな意志だけが、今の彼女を、辛うじて繋ぎとめていた。
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