第9話 ぶり返す兆し

封霊会の医療棟での治療から数日。

神崎ひよりは、一人任務に向かう途中、拳をぎゅっと握って確かめた。

(……力は、戻ってる。胸にうずくような感覚も薄まっている)

そう思えたのは、女医・篠宮のあの治療を受けた後からだった。

身体の内側で、何かが静かに整っていくような感覚があった。

 

今回の任務の目的地は、廃棄された鉄道倉庫跡。

霊的な波動が不規則に渦巻くこのエリアで、淫霊が目撃されたという。

薄暗い倉庫の扉が軋む音とともに、静寂を切り裂いた。

ひよりが一歩足を踏み入れると、空気が変わった。

足元を這うように黒い影が走る。

次の瞬間、天井からずるりと何かが垂れ下がった。

その姿は半透明で、ところどころ液体のように揺れていた――淫霊。

ひよりはすぐさま膝を曲げ、地を蹴った。

「――はっ!」

拳が唸りを上げる。しかし――

「フフフ……」

空気のように、それはすり抜けた。

風に触れたような無抵抗の感触。確かに拳は振るわれたのに、何も捉えていない。

(速い……)

視線をぶらさず、再び踏み込み、拳を放つ。

だが、それでも届かない。

徐々に呼吸が乱れ、額に汗が滲み始める。

浅くなる呼吸とともに、皮膚の感覚が徐々に研ぎ澄まされていく。

「そろそろ、アタシの番……ねぇ?」

淫霊の身体が広がるようにうねり、粘性のある霧状の瘴気を放った。

靄のように揺れるそれは、ひよりの腕、そして太ももに絡みつく。

(……少し触れたけど、平気……まだ、平気)

だが、皮膚に触れたその瞬間、微かな熱とともに、前回の記憶が一瞬よみがえる。

(これは……いや、いまは集中……!)

気持ちを立て直し、息を整え、さらに距離を詰める。

拳は確かにかすめた。

(……おしい…!)

そう思った瞬間だった――

今度は至近距離から、淫霊の粘液を吹きつけた。

「……っ!」

ねっとりとした液体がシャツに、そして露出した胸元に絡む。

脚にもぬるりとした滴が伝い、太ももを撫でる。

太陽に焼けたひよりの肌は、その液体のせいでいっそう艶めき、

張りのある曲線が、微かに呼吸と連動して上下する。

その動きだけで、彼女の熱の高まりが見て取れる。

(そんな……この感じ…まさか…)

治療で抑えられていたはずの、体質の“過剰反応”。

あの火照りが、ぶり返すようにじわじわと広がっていく。

皮膚の奥に何かが灯り、息を吐くたび、胸の奥に微かなざわめきがこみあげる。

焦燥が胸を締めつける。

肌に貼りつくシャツ、その布越しに伝う液体のぬめりが、じわりとひよりの皮膚感覚を濡らしていく。

それはただの粘液ではなく、ひよりの身体に刻み込まれた“感応”の震えを刺激していた。

脚がわずかに震え、呼吸が浅くなる。

けれど、それは痛みではなかった。

むしろ──身体が、何かを求めるように震えていた。

淫霊はそれを察してか、にじり寄るように姿を変え、ぬめる影を近づけてくる。

(…こ…こないでっ)

口に出せない叫びが、胸の奥で燻る。

それでも――

(こんなところで、負けるわけには……いかない!)

彼女は深く息を吸い込むと、ふるえる脚に力を込めた。

目を閉じ、過敏にざわつく身体の内側から、静かに拳へと意識を集めていく。

「……っ――はぁぁぁっ!」

目を開いた瞬間。

全身を駆ける熱を、そのまま拳へと乗せ、ひよりは駆けた。

風が唸り、拳が空間を裂く。

その一撃が淫霊の中心を穿ち、空気が凍るような静寂が一瞬、空間を支配した。

そして次の瞬間――淫霊は、砕けたガラスのように、霧へと溶けていった。

その場に残されたひよりは、膝に手をついて荒く息を吐いた。

胸の奥がかすかにざわめく。

(終わった……)

ふたたび胸の奥に残る微かな熱。

それは、あの症状が完全に治ったわけではないことを教えていた。

汗なのか、淫霊の粘液なのか。

ひとすじ、脇から横腹へとゆっくりと流れていくのを感じ、慌ててシャツでぬぐった。

再びぶり返したような過敏な感覚を胸に秘めながら、寮への帰路に着いた。