第9話 ぶり返す兆し

公開日: 2025/07/11

封霊会の医療棟での治療から数日。

神崎ひよりは、一人任務に向かう途中、拳をぎゅっと握って確かめた。

(……力は、戻ってる。胸にうずくような感覚も薄まっている)

そう思えたのは、女医・篠宮のあの治療を受けた後からだった。

身体の内側で、何かが静かに整っていくような感覚があった。

 

今回の任務の目的地は、工場地帯。

霊的な波動が不規則に渦巻くこのエリアで、淫霊が目撃されたという。

薄暗い工場の倉庫の扉が軋む音とともに、静寂を切り裂いた。

ひよりが一歩足を踏み入れると、空気が変わった。

急いで後ろに下がり外に出る。

足元を這うように黒い影が走る。

次の瞬間、倉庫の屋根からずるりと何かが垂れ下がった。

その姿は半透明で、ところどころ液体のように揺れていた――淫霊。

ひよりはすぐさま膝を曲げ、地を蹴った。

「――はっ!」

拳が唸りを上げる。しかし――

「フフフ……」

空気のように、それはすり抜けた。

風に触れたような無抵抗の感触。確かに拳は振るわれたのに、何も捉えていない。

(速い……)

視線をぶらさず、再び踏み込み、拳を放つ。

だが、それでも届かない。

 

徐々に呼吸が乱れ、額に汗が滲み始める。

浅くなる呼吸とともに、皮膚の感覚が徐々に研ぎ澄まされていく。

「そろそろ、アタシの番……ねぇ?」

淫霊の身体が広がるようにうねり、粘性のある霧状の瘴気を放った。

靄のように揺れるそれは、ひよりの腕、そして太ももに絡みつく。

(……少し触れたけど、平気……まだ、平気)

だが、皮膚に触れたその瞬間、微かな熱とともに、前回の記憶が一瞬よみがえる。

(これは……いや、いまは集中……!)

気持ちを立て直し、息を整え、さらに距離を詰める。

拳は確かにかすめた。

(……おしい…!)

そう思った瞬間だった――

今度は至近距離から、淫霊の粘液を吹きつけた。

「……っ!」

ねっとりとした液体がシャツに、そして露出した胸元に絡む。

太ももにもぬるりとした滴が伝う。

ひよりの肌は、その液体のせいでいっそう艶めき、

張りのある胸元が、微かに呼吸と連動して上下する。

その動きだけで、彼女の熱の高まりが見て取れる。

(そんな……この感じ…まさか…)

 

PixAI – Moonbeam (PixAI Official)

  

先日の処置で抑えられていたはずの、特異体質の“反応”。

淫霊が吹きつけた粘液は、肌に触れた瞬間からじわりと熱を帯びさせる。
どうやら、その中には感覚を鋭く研ぎ澄ませる何かが、混じっているようだった。

あの火照りが、ぶり返すようにじわじわと広がっていく。

皮膚の奥に何かが灯り、息を吐くたび、胸の奥に微かなざわめきがこみあげる。

焦燥が胸を締めつける。

 

肌に貼りつくシャツ、その布越しに伝う液体のぬめりが、じわりとひよりの皮膚感覚を濡らしていく。

それはただの粘液ではなく、ひよりの身体に刻み込まれた“感応”の震えを刺激していた。

脚がわずかに震え、呼吸が浅くなる。

けれど、それは痛みではなかった。

 

むしろ──身体が、何かを求めるように震えていた。

淫霊はそれを察してか、にじり寄るように姿を変え、ぬめる影を近づけてくる。

(…こ…こないでっ)

口に出せない叫びが、胸の奥で燻る。

 

それでも――

(こんなところで、負けるわけには……いかない!)

彼女は深く息を吸い込むと、ふるえる脚に力を込めた。

目を閉じ、過敏にざわつく身体の内側から、静かに拳へと意識を集めていく。

「……っ――はぁぁぁっ!」

目を開いた瞬間。

全身を駆ける熱を、そのまま拳へと乗せ、ひよりは駆けた。

風が唸り、拳が空間を裂く。

 

その一撃が淫霊の中心を穿ち、空気が凍るような静寂が一瞬、空間を支配した。

そして次の瞬間――淫霊は、砕けたガラスのように、霧へと溶けていった。

 

その場に残されたひよりは、膝に手をついて荒く息を吐いた。

胸の奥がかすかにざわめく。

(終わった……)

ふたたび胸の奥に残る微かな熱。

それは、あの症状が完全に治ったわけではないことを教えていた。

汗なのか、淫霊の粘液なのか。

ひとすじ、脇から横腹へとゆっくりと流れていくのを感じ、慌ててシャツでぬぐった。

再びぶり返したような過敏な感覚を胸に秘めながら、寮への帰路に着いた。

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